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1.疑わしきは罰せず

2.思わぬうつ病

3.生検にだすためにブツをとる

4.イレギュラー発覚

5.全摘宣言の日

6.封じ手をあける

7.覚悟を決めるまで その1

8.覚悟を決めるまで その2

9.手術予定日を決める

10.手術でおこりうる問題

11.内科医は話し方がうまい

12.外来終了

13.入院の日

14.永久気管孔という穴

15.手術

16.あちらの世界にいったT その1

17.あちらの世界にいったT その2

18.下痢と微熱と貧血と

19.とつぜんの狭心症発作

20.失神発作

21.手ごわい嚥下の練習


 …この項終わり…


 

  17.あちらの世界にいったT その2


 その日の午後はおとなしくしていたTだったが、夜になると豹変する。
 Tはドレーンを抜かれて、あとは鼻から胃に入れられている管と点滴と尿道カテーテルを体にぶらさげているだけだったが、この2つの管を非常に嫌がった。なにかと管をいじって抜こうとする。

「だめ、抜いちゃ」

 管をいじっているTの手を管から放させようとすると、こちらの抑える力を感じたとたんに、ものすごい力をだして抵抗する。なんとか管から手を離させ、再び管をいじらないようにとTの手と私の手を、右と左、それぞれ組んで握ると、Tはものすごい顔でにらむ。私も負けずににらみ返す。しばらくそのままにらみあい(力士もまっさお)。すると、Tはあきらめて横になる。

 ところが、おとなしくなったかなと思うと突然むくっと起きあがる。今度は不安げな目で私を見る。
「どうしたの?」
 Tがボードに書く。
「躁鬱病だ」
 入院前にしばしば悩まされた、あの症状といっしょなのか。
「じっとしていられないの?」
 こくん。
 あのときのように散歩に出かけられれば、すこしはいいんだろうけれど。「でも……今日は散歩はできないよ」

 すると、Tはふらふらとベッドから降りて、両手をベッドについて前屈みの姿勢でじっと立った。Tの鼻や口にはノドに移植した空腸からだされる(らしい)黄色く粘りけのある液体がたまって、すぐいっぱいにあふれる。この液体がノドに流れこむのがつらいようだ。「寝ると、あとは飲みこむしかなくなる」といって、横になるのを嫌がった。

 ほんとうはまだ立ちあがってはいけない(はず)。それでも我慢しろともいいにくく、しかたがないので、Tが倒れないように見張りながら、本人の気の済むまで立たせておく。そのうちに落ちつくと、自力でベッドにはいあがり横になって静かにしている。落ちついているときと、いらついているときの精神状態の差が非常に大きい。

 横になったといっても、15分くらいで、また起きあがる。ベッドの上に膝で立つ。
「どうしたの」
 Tは足をのばしてベッドの脇にたてた転落防止の柵を乗り越えようとする。「だめだってば」すると、今度はベッドの上に立ちあがろうとする。「だめっ、座って」Tは怒ったように口を動かして何かをいう。わからないので「ほれ」とボードを渡すと、怒りをあらわにして荒々しく文字を書いた。

「ばかやろう」

 はいはい、そういうことはいちいち書かなくていいからねっ。

 消灯時間になってもTは寝られない。ベッドの上に膝立ちしたり、あぐらをかいたりとせわしない。ちょっと目を離すと、自分の体にぶら下がっている管を抜こうとする。「だめだって」とTの手を取ると、ぐーで私をぶつ。ボードをベッドにたたきつける。暴れる、暴れる。

 看護婦さんも頻繁に来て、なんとかTを寝かしつけようと努力してくれる。
「寝られないかもしれないけれど、横になって目をつぶりましょう」「せっかく手術が無事に終わったのに、傷が開いたりしたらたいへんですよ」

 看護婦さんは、じつに辛抱強く勧めてくれるが、Tは聞いているのかいないのか。
そこで看護婦さんが「眠れる薬を使ってみましょうか」とTに聞いた。Tがうなずいたので睡眠導入剤を使った。それなのにTの目はらんらんと輝いている。

「おれはこのプロジェクトに入るより、3日間家で寝ていたほうがよかった」
 あ、すこしはまともだなと思いきや、妙なこともいいはじめる。

「おれが金を持っていなかったのが敗因」
「ルール不勉強で遊ぶ下手をしました。許してください」

 どこにいるんだ、きみは。

 24時をすぎてもTは眠らずにせわしなく動いていた。ついに看護婦さんが「ナースセンターに行こうか」本人がうなずいたので、車椅子に乗せてナースセンターに行く。点滴棒と酸素ボンベとともに大きな丸テーブルに座らせる。しかし、ここでもじっとしていられずに立ちあがったり、座ったり。

 1時すぎ。Tがパソコンをいじりたがったので、目の前にノートパソコンを用意すると、自分でワープロソフトを立ちあげてなにやら文章を書きはじめた。しかし、もうろうとした頭で指もおぼつかず、思ったように文字が打てない。何度もやりなおし、そのたびにいらいらをつのらせ、ついにテーブルをぐーでたたいて大噴火。「おれがボードに書いた文字をおまえが打ち込めっ」と身振りでいう。逆らうとあとが怖いし、興味もあったので素直に従った。以下がその文章である。

「この地方独特のばくちがルールになっていると思われるとばくである。ばくちとなるルールは不自然で、複雑。ルールがわからぬまま他地方の人に大きな迷惑がかかっている。こんなばくちをはやらせていては、地文化にも傷がつく」

 どこにいったんだ、きみは。

 この夜はP医師が自分の患者の容態を見にきていた。患者のようすを見てナースセンターに戻ってきたP医師に、Tは立ちあがって「ばくちのことは何かいっていませんでしたか」とまじめな顔をして聞く。私は、なんてことを聞くんだと思ったが、P医師は慣れた感じですまして答える。「いっていませんでしたよ」

 Tは納得した面もちで、静かに椅子に座った。

 私が恐縮していると、
P医師は、
「あちらの世界に行く人は、お酒を多く飲まれていた方に多いようです。モルヒネなどの薬を使っているわけではないので、薬のせいではないんです。首の手術をすると細かい血管や神経がぶちぎれるわけで、それで脳に行く血液が一時的に今までよりも減ってしまうためではないか、という説もあるんですが、理由はよくわかっていません」
と、親切に教えてくれた。

 明け方が近くなってきた。Tは、ときどきあくびをする。ねむたそうな仕草にほっとするもつかの間。突然、Tはかっと目を見開いてナースセンターの窓の外を指さした。
「なに? なにか見えるの?」

 もちろん、窓の外には隣の建物があるだけで、特別なものはなにも見えない。
「人?」こくん。
「知っている人?」ううん。
「男の人?」こくん。Tがボードに書く。「白い服着て、やや若い」

 きゃあ、やめてよ。ここは病院だよ。怪談の舞台だよぉ。

 看護婦さんは冷静だ。
「あちらの世界に行っている人は、私たちの見えないものが見えるみたいですよ。明らかに何かを見ている目つきですよね」
 また、別の看護婦さんは「私たちも感じるときがありますよ」
 ううっ……朝よ、はよこいっ。悪魔退散っ、幽霊ゴー・ホーム!

 まもなく空がしらじらとしてきて、あっというまに夜が明けた。夏の夜が短くてよかった。Tも落ちついている時間が長くなってきた。

「部屋に戻る?」
  看護婦さんの言葉に、Tはこくん。ベッドに戻ったあとは、おとなしく横になってそのまま眠ってしまった。

 Tがこちらの世界に戻ってきたのは、さらにこの翌日、7月31日である。手術から4日めのことだ。Tはインドの女神の大群とか、ベッドの天井でこっちを見ている人とか、ベッドをはいずる虫など、いろいろなものを見ながら戻ってきた。

  あとで聞いたら、あちらの世界のことはすべて覚えているという。テレビで女性を描いたインド絵画がでてくるとTは「ああいうのがいっぱいいて、くねくねと踊っていたんだ。すごいだろ? 楽しいだろ?」と、一人嬉しそうにいった。

  やれやれ。




                                  

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